導入

2007 年 3 月、私は Weizmann 研究所に招かれ、過冷却液体とガラス転移の物理学について入門講義を行った。 Aging や非平衡現象に関連することはさておき、平衡挙動について話さなければならなかったが、その仕事はかなり大変そうだった。 約 2 時間、専門外の聴衆の前で、膨大なテーマを扱う必要があった。 そこで、過冷却液体の物理学において私が重要だと考えるいくつかの概念を選び、簡潔ながら首尾一貫した話の中に組み込もうとした。 結果はまずまずだったようで、講演の最後に、座長たちから講演をノートにするよう勧められた。 私はノートを作る上で何をしても良かったが、ひとつだけ重要なポイントがあった: 元の講演と同じように、初歩的で、不完全で、流暢でなければならないということだった。

問題は、過冷却液体の分野は、すでに恥ずかしくなるほど多くのノートや教科書があることである。 参考文献 [ 2 - 13 ] はほんの一部である。 したがって、明らかに不必要な新たな努力を正当化し、先人よりもさらに優れているという全著者に共通する信念(しかし、読者にとっては小さな慰めである)を超えて、このノートの新たな価値が何であるかを説明するのが礼儀であると思われる。

過冷却液体とガラス転移に関する文献には、若く専門外の読者を対象とした簡潔なノートが不足していると私は考えている。 つまり、液体論や無秩序系に関する特別な知見がなくても、統計力学の素養があれば読んで理解できるようなノートということだ。 Weizmann 研究所での私の講演が評価されたのは、おそらくこれであろう。 したがって、このノートの目的は、全く網羅的でなくやや表面的であっても、簡潔かつコンパクトにこのテーマ全体を網羅することである。 レベルは本当に初歩的である。専門家の読者には、多くの重要なトピックがカバーされていないことを留意してほしい。

似たような心構えにもかかわらず、本ノートの意図するところは、私が以前書いたノート"Spin-glass theory for pedestrians“とは全く異なっている。 その場合、分野全体のパラダイムとして、単一平均場スピングラス(p-スピンモデル)を数学的に詳細に解析したが、 過冷却液体の場合、一つのパラダイムとなる系を特定することが非常に難しく、また、確立された理論的枠組みが存在しないため不可能だろう。 したがって、私は主に現象論を通して、液体が冷却されるときに交わるさまざまな温度領域を渡り歩くように本ノートを進めることにした。 この旅路を図1 で模式的にまとめた。 このノートを通して地図として使用することができる。

液相から深部過冷却層までに渡る旅路

過冷却液体の旅路

Fig.1: 過冷却液体の旅路

高温相から深部過冷却相までの液体における温度の関数としてのエントロピーの模式図。このノートで紹介した関連温度は全てマークされている: $T_m$ は凝固点(融点)であり、ここで液体と結晶の間の一次相転移が起こる; $T_c$ はモード結合理論と $p$-スピンモデルによって純粋に動的転移が起こる温度である; $T_x$ は高温非活性化ダイナミクスから低温活性活性ダイナミクスへの Goldstein の交差温度である; $T_g$ は動的ガラス転移点であり、緩和時間が従来の実験可能時間である $10^3$秒を超える; $T_k$ は Kauzmann 温度であり、低温側に外挿していった液体のエントロピーが結晶のエントロピーとぶつかり、ある理論によれば熱力学的な相転移が起きるとされる(補足: 無秩序な構造を持つ液体の方が常に結晶よりエントロピーが大きい); $T_0$ は Vogel-Fulcher-Tamman 則にて緩和時間の発散が起きる温度である。 また、それぞれの温度でのおおよその緩和時間(秒)を記す。

液相から$T_m$へ

いくつかの粘弾性的な背景を含む最初のパート(補足: 液相)の後、結晶化が回避され、凝固点$T_m$以下で過冷却液体が形成される条件とは何かの理解を試みる。 このパートでは、核生成理論と特に動力学的スピノーダル、すなわち結晶の核生成時間が液体の緩和時間より短くなる温度以下に焦点を当てる。 この温度以下で結晶化を防ぐ唯一の方法は、系を非平衡にすることである。 動力学的スピノーダルは過冷却相の準安定限界を表す。 したがって、どのような条件下でそれを回避できるかを発見することが不可欠である。 本パートは、結晶化せず過冷却液体になることが決して当たり前ではなく、時に想像よりも微妙なプロセスだと理解するために重要だ。

$T_m$から$T_c$を経由して$T_g$へ

一度液体を不要な結晶化を避ける事ができれば、動的ガラス転移点$T_g$を満たすまで温度を下げることができる。 この時点で、系の緩和時間は我々の実験可能な時間を遥かに超えるほど急増する: ガラス転移点を下回ると、系は必然的に平衡から外れ、ガラスが形成される。 この操作によって導かれるガラス転移の定義を踏まえると、$T_g$とは、我々の実験時間の有限性によって純粋に慣習的に名付けられた温度かもしれない。 さらに、$T_g$に近い温度での液体の構造は、高温の場合とまったく変わらないように見える。 このこともまた、一般的に知られているガラス転移では重要なことは何も起こっておらず、緩和時間の伸びはあまり関係のない「量的な」特徴に過ぎないという印象を与える。 しかしこれは真実ではなく、少なくとも脆い液体については、$T_g$で真に新しい物理が生じることがこれからわかっていくだろう。 我々は、流動相にある液体とガラス転移点近傍にある液体と間を定性的に区別する現象論的な特徴に焦点を当てる。 動的相関関数の 2 段階にわたる緩和が、ガラス転移に近いことを示す最も洞察的な指標であることを見出していく。

どのような物理的な側面がガラス転移を引き起こすのかを説明するために、Goldsteins 温度$T_x$で起こる非活性化から活性化へのクロスオーバーについて説明する。 上記の$T_x$活性化は拡散の主要なメカニズムではなく、ダイナミクスはモード結合理論によって合理的に記述される。 しかし、$T_x$ 以下では、液体は活性相になり、最終的にガラス転移$T_g$に至る。 この交差の性質をよりよく理解するために、$p$-スピン模型の中で得られた平均場の結果について議論し、モード結合と$p$-スピンの両方によって予測される動的転移$T_c$が、Goldsteins の温度$T_x$と概念的に同じだと示す。 最後に、ポテンシャルエネルギーのサドルの役割を探求し、系が相空間上で不安定状態を使い果たした結果、どのように 2 段階にわたる緩和が起こりうるかを説明する。

$T_g$の先へ

この後、深い過冷却相に入っていく。 ガラス転移をスキップし(本来はスキップできないが)、極低温でも液体を平衡に保つことができると想像してみる。 そうすると、有名な Kauzmann 温度$T_k$、すなわち液体のエントロピーが結晶のエントロピーと等しくなる点に出会う。 いくつかの理論的枠組みによれば、この時点で緩和時間が発散して相転移が起こるはずである。 このような相転移が本当に起こるかどうかは、あまり重要ではないかもしれない: というのも動的ガラス転移によって、この点には到達できないためである。 しかし、相転移の背後にある物理的メカニズムが、高温でも系の挙動に影響を与え、制御している可能性がある。 このような理由から、深部過冷却相を研究することは、単なる学問的な遊びではない。

最後に、相関長を探す。 直感的には大きな時間があるところには、大きな長さもあるはずだ。 これは理にかなっている: 緩和時間が大きくなるのは、系が低温にてより大きな相関領域を再配列する必要があるからだ。 Adam-Gibbs 理論やモザイク理論などのように、過冷却液体に関するいくつかの重要な理論的枠組みにおいて、成長する長さスケールは重要な要素である。 しかし、過冷却液体において、この長さスケールをどのように定義するかは明確ではない。 なぜなら、相関長を求めるには通常、適切な秩序パラメータを定義し、その相対相関関数を測定する必要があるが、ガラス状液体では、全てのアモルファス配置が同じように見え、相関領域を検出することが難しいためである。 アモルファス秩序の成長を明らかにする方法を説明することが、このノートの最終目的である。

最後に

平均場スピングラスについて書いたところにあるとおり、Aging と非平衡ダイナミクスの話題は取り上げない。 これは、私がこのテーマを嫌っていたり、軽視していたりするためではない。 むしろ逆に、この分野が非常に重要で広大な分野であるため、このような短い総説の一節ではカバーしきれないという事実によるものである。 平衡物理学と非平衡物理学の混同を避けるため、(タイトルから)できるだけ「ガラス」ではなく「過冷却液体」という言葉を使うようにした。

このノートで議論されている理論的枠組みについて、最後に一言注意しておきたい。 ガラス転移に関する共通の理論は存在せず、異なる枠組みは絶えずぶつかり合っている。 この原稿を書いている間にも、世界中から集まった研究者たちが Leiden でのワークショップの準備をしている。 このような状況下で、私には 2 つの選択肢があった: 世に出回っているあらゆる理論を多かれ少なかれ完全なリストとしてまとめ、それら全ての長所と短所を簡潔に論じる; あるいは 網羅的ではないのもの、一貫したストーリーについて主に私の個人的な見解を論じるか。 当然のことながら、私は圧倒的に怠惰だし余白もないので、私は後者を選んだ。 この方が、当初の Weizmann での講演の精神にも忠実だった。 実際、このレビューに含まれる資料に私が与えた構成でさえ、この分野に対する私自身の理解を反映している。 したがって、過冷却液体を支配する基本的な物理的メカニズムに関する私の見解が完全に少数派ではないとしても、読者はこれが全てではないことをよく理解しておく必要がある。