血の通った音楽がしたい

血の通った音楽がしたい

アイルランド音楽

アイルランド音楽

2026年4月12日

最近、アイリッシュ音楽との向き合い方が以前とは少し変わってきた気がする。

音楽を始めた当初はセッションで会う人と一緒に演奏したい一心で、曲を覚えたり楽器の操作に慣れることに必死だったと思う。 ある程度楽器を操作するのに慣れてきた頃には、知識を深めて曲の背景に思いを馳せることに熱心だった。 そして、今はもっとその場の音を楽しみたい、というより原始的な方に意識が向いてきている。

なぜ今そんな風に思うか改めて考えるようになり、ここらで一旦、アイリッシュ音楽に対して僕自身がどう向き合っていきたいのか、漠然と考えていることを整理するために書き留めていくことにした。

現地で触れた音楽について

生活の中で息づく音楽

パブに行けば地域のコミュニティがあって、会話と音楽が混ざり合っていて賑やかだった。

セッションに参加する前にちょっと離れたカウンターで聴きながら飲んでいたら、隣のおっちゃんが気さくに話しかけてくれたことがあった。 初めて訪れた僕に対して 1 杯奢ってくれた上、セッションに参加する際にプレーヤーに掛け合ってくれた。 彼は楽器が弾けるわけではないけど、ここのセッションが心から好きで良く聴きに来るらしかった。 そんな彼もまたこの場所の音楽を形作っているのだと思った。

ある時「あの曲は私の家の裏に住んでる人が作った」と教えてくれてびっくりしたこともあった。 経緯を尋ねると、楽しそうな様子で語ってくれ、彼にとってその曲は資料ではなく隣人や友人との経験や思い出なのだと思った。 一方で、僕は曲の知識を得ようとして背景を調べる中で、誰から教わったとかその人がどう弾いていたかとか、決して関心こそなかったわけではないとしても大事にしてこれただろうか?と自問自答したりもした。

少なくとも僕が現地で出会ってきた人々は、驚くほど自然に音楽の中に暮らしているように感じた。

知識を深める功罪

もちろん、知識やを蔑ろにして良いと言いたいわけではない。 実際、知識は眼の前で繰り広げられる音楽を多角的に知覚・理解するための大きな助けになる。

ただ、知識を習得することが目的となり、それをどう活用するかが二の次になっていると少しもったいない気もしてくる。 そうなると、音楽は作業に近いものになってしまうのではないか。

実際、僕自身も Mary MacNamara さんの演奏が好きで自分なりに取り入れようと試行錯誤した時期があった。 確かに一定の改善はあったけど、それを正解だと思ってしまったことで、演奏がまるで手順をこなすための手続きのように感じられたときがあった。

また、せっかくのセッションに参加しても自分の落ち度ばかりが気になってしまい、今起きている音楽を楽しめないことがあった。

音楽を分析対象とすると、これまでの軌跡に目を向けて情報として追いかけることはできても、今まさに起こっている豊かな音楽に対して目を向けて寄り添うことが難しい場合があると思う。

一体となって躍動する音楽

実際に現地でいくつかのセッションに参加させてもらって最も印象に残ったのは、個々の音が消えて一つの巨大な塊となって迫ってくる感覚だった。

個々の奏者はもちろんそれぞれ個性が活きた演奏をしていた。 でも、タイミングや抑揚がバチッとあっていて、みんな合わさるとバラバラな音の集まりではなく、くっきりとした輪郭を持った躍動感のある旋律を形作っていた。

また、曲は繰り返していても周回ごとにまるで生き物のように旋律や抑揚が次々に変化し、奏者たちは楽しそうにその突発的な変化にすぐ反応して音を重ねていた。

それは奏者だけでなく聴き手も巻き込んで空間全体を満たして終わる気配を見せずに何周も続いていた。 それは、みんな音楽が流れているこの時間がずっと続くのを願っているかのようだった。

躍動はどこからくるか

では、この躍動はどこから来るのか。

少なくとも言えることとして、そもそも音楽とは時間軸を流れる一本の線で、決して巻き戻すことができないということだ。 そして、その儚い時間の流れの中のその一瞬一瞬を一緒に分かち合える喜びこそが、躍動の根源ではないだろうか。

音が鳴っている「その瞬間」を分かち合うには、視点を自分の外に向ける必要がある。 隣の相手の息遣いや今鳴らされている音の変化、さらに聴き手の温度感といった他者に視点を向けていると、余計な自意識からは自然と解放される。 すると、今鳴っている音がこの後どう弾けばいいかを教えてくれていることに気づけるはずだ。

このように刹那的な響きの中に思い切って自分を投げ出し、相手を信頼して自分の音を乗せていき、お互いに迷いなく噛み合った先にしか真の躍動は生まれないのだと思う。

他国の伝統への寄り添い方を考える

これまで、アイリッシュ音楽がいかに生活の中で生き生きと演奏されているかについて書いてきた。

では、アイルランド人でもなくアイルランドに住んでいるわけでもない僕は、どうやってこの生ける伝統を体現していけばよいかを考えてみる。

一つ思い至ったのは、アイルランド音楽を追いかけるものではなく、自分自身の生活とともにあるものとして捉えてみてはどうか、ということだ。

伝統の保存とは、過去への参照だけというわけではないし、現地の人の振る舞いをそのまま写し取ればよいものでもないはずだ。 実際、過去のアイルランド音楽の演奏者もきっとそのときの音楽を保存するというよりも、「かつてのこの瞬間」の刹那を思いっきり楽しむために弾いていたはずだ。

であるなら今を生きる僕もまた、演奏している今この瞬間を噛みしめることが、伝統に敬意を払い、寄り添うことに繋がらないだろうか。

等身大の音を奏でてみる

以上を踏まえた上で、僕は自分の人生を反映するように演奏していこうと思う。

現地の音楽に敬意を払うのは前提として、無理にアイルランドの音を移し取りすぎず、自分がこれまで生きてきた環境や生活も織り交ぜた手触りのある演奏を心がけていきたい。 そうして生まれる等身大の音は現地と質感が違うかもしれないが、一人の人間の演奏としてきっと現地の人に受け入れられると信じている。

Fleadh で Peaceful Corcomroe を演奏したときもまさにそんな感じだったと思う。 実際に見た Corcomroe Abbey の景色や体感した風・匂いだけでなく、そこから自分なりに解釈を加えながら今の自分が出せる精一杯を込めて演奏できた自負がある。 すると、一緒に Fleadh に出ていた現地のプレイヤーに良い Air だったと言ってもらえた。 これは僕の中で大きな救いとなった。

刹那の尊さを分かち合える喜び

アイリッシュ音楽を正しい知識を元にした再現として捉えるをやめ、目の前の相手を信頼し、自分自身の生きてきた風景を音に乗せて「今、この瞬間」を分かち合う。

その実直な姿勢こそが、結果として伝統の核心である躍動の形で現れて現地の人の心にも響く血の通った演奏になると思う。

また、これまでの話には技術の熟練の度合いは関係ないと思う。 初心者であろうと、自分の持てる最大限を振り絞って眼の前の音に対して真っ直ぐな気持ちで演奏すれば、その瞬間にしか生まれない響きでみんなの心を打つ演奏ができるはずだ。

最終更新日